Matabei Gotoh

吉村武右衛門小伝


 吉村武右衛門

 生いたち
 今を去る三百六十四年の昔、我が国戦国史の掉尾を飾る、大坂冬夏の陣に於ける、
大坂方先鋒の一将として、この地に於て奮戦した吉村武右衛門は、大織冠鎌足公を、
始祖とする藤原氏の出で、北家坊門流の末葉として、文禄元年に生れる。
 筑前福岡の黒田家に仕えていたが、慶長十一年、嘉麻郡小隈城主後藤又兵衛基次
が、その主黒田長政との確執に依り同国を立退くに当り、吉村武右衛門もまたこれ
に従って、退去浪人した。

 大阪入城
 関ヶ原役後、天下は漸く徳川の政権下に固らんとしつつあったが、独りその中に
あって、計り知れぬ巨万の富と、不落を誇る城に拠る豊臣氏の存在に不安を抱く、
家康は、一挙にこれを覆滅すべく、陰湿な策謀をめぐらせ、京都方広寺、大仏殿の
鐘銘文に、疑義あるを事由として、遂に、対戦に追い込み、慶長十九年(一六一四
年)ここに大坂陣の発端を、見るに至った。
 開戦に先立ち、又兵衛基次は、秀頼の招聘に依り、五部将の一人として、大坂方
に属するに当り、浪人中の武右衛門も、また又兵衛基次の招きに依り、大坂に入城
その麾下に入る。

 夏の陣 小松山合戦
 冬の陣の、和議も幾何もなくして破れ、ここに再び、夏の陣の争起を見るに至っ
た。
 元和元年五月六日、大和口先手総大将たる又兵衛基次は、古沢四郎兵衛満興、山
田外記片山勘兵衛等の諸将を初め、吉村武右衛門長沢七郎右衛門以下、旗本郎党の
士卒、二千八百の手勢を率い、瀟々たる、夜来の雨を冒して平野の陣所を出発。
 藤井寺誉田を経て、未明道明寺に至り、後続部隊たる、薄田隼人正、山川賢信、
北川宣勝、槇島重利、明石全登、井上時利等の兵、総勢三千六百余。後詰たる真田
左衛門佐信繁(幸村)の三千。毛利豊前守勝永の三千。その他、福島正守、渡辺内
蔵助糺、大谷長岡勢等の兵合わせて、六千余。総勢一万六千余の到着を、焦燥の想
いで待ったが惜しむべく濃霧の為か、来着が遅れ、ここに、勝敗の歴史の破綻を来
す、素因を作るに至った。
 戦の不利を悟り乍らも、刻々と事態の急変を感じた又兵衛は、直ちに石川を渡渉、
自隊のみ進撃を決意するに至ったが、時既に遅く、奈良を発した大和口の関東勢は、
前日、亀の瀬、関屋道より併進し、大和衆を率いた先鋒水野日向守勝成(三千八百)
伊勢衆を伴った、本多美濃守忠政(五千)美濃衆を含んだ松平忠明(四千)伊勢政
宗(一万)上総介忠輝(一万三千戦の初期未着)の総勢三万余の大軍を以て既に、
国府付近に、布陣を終っていた。
 悲運援軍の無きまま、孤軍を以て、大敵を邀え撃つ運命におかれた、又兵衛では
あったが直ぐさま、麾下の士卒を指揮し、小松山(俗称後に勝敗山。又勝松山。今
東山。玉手山)を占拠するに至る。これを見た関東方の先鋒水野日向守の下知に依
り、大和の処士、奥田三郎右衛門忠次、松倉豊後守重政等、先を競って、小松山を
攀じ登ったが精強を謳われた、後藤隊の槍、鉄砲隊の為に数多くの死者を残して、
追い墜され、一時は大坂方有利に展開したが、時を経るに従い、続々新手を繰り出
す、雲霞の如き大軍に、次第次第に押され、漸て、石川堤を背にするに至る。
 最早や戦はこれ迄と悟った、又兵衛は、最後の決戦を伊達勢に求め、血塗れた大
身の槍を振い山腹を横ざまに駆けんとした時、片倉景綱が従士の放った、銃弾にて
重傷を負うに至る。
 郎党等争って駆け寄り介抱せんとしたが、これを拒み、特に武右衛門を招き寄せ、
「速やかに我が首を打て、然る後深田に埋めて、決して敵手に渡すな。」と厳命し、
節を貫いてその生涯を終る。時に齢五十有六才時刻は正午前後であったと謂われて
いる。
 寡兵を以てよく十倍の敵を引きつけ、然も激斗を繰り返すこと数刻に及ぶ、後藤
隊の奮戦は、敵味方とも等しく、賞讃を惜しまなかった。遺命を受けた、武右衛門
は乱戦の中に首を、深田に埋め、決するところあって、潜かに戦場を離れた。

 伊予長泉寺のこと
 後藤家の、文書に拠ると、武右衛門は、合戦後、日を経て又兵衛が首を、深田よ
り取出し、我が身は、六十六部の姿に変え、又兵衛由縁の地、伊予松山郊外、医王
山長泉寺に、手篤く葬ったと、伝えられ、今もなお其処に、墓所がある。

 喜連蔭凉庵のこと
 武右衛門は、それより攝津国喜連村の知る辺を頼り武士を捨て、名も水井佐兵衛
と、改め同地に潜居した。この時、武右衛門は二十四才の青年であった。
 寛文元年(一六六〇年)中喜連村に蔭凉庵なる、禅寺を建立し、伊予国松山の天
徳寺★(注1.)翁和上を勧請開基として、大坂の陣戦没者の冥福と、子孫の繁栄を
祈願した。武右衛門また慈悲心篤く、河内国瓜破村城山の邊りに、小川があり、往
時降雨期に於て屡々橋脚が流失し、行路者里人の難渋するを見兼ね、自力を以って
、架橋をする等、篤農の人として敬慕されたと云う。なお近年迄この橋梁の跡があ
った。

 浄和寺のこと
蔭凉庵は後代に於て河内国長野千代田村の松林寺の法厳智範が中興し寺名を浄和寺
と改め幕末迄現存していたが明治の排仏毀釈により惜しくも廃寺となり仏像仏具等
は松林寺に移した。境内地所寺建物を売却それらの代価を喜連村用水樋宇五十間込
樋修繕費に充てた。

 結び
 吉村武右衛門(水井佐兵衛)は延宝三年卯年二月十七日齢八十四才の長寿を保ち
多くの人々に惜しまれながらこの世を去った。
法名即心浄和居士と云う 合掌
昭和五十三年四月吉日 小島太門記

遠祖
吉村武右衛門三百五年祭供養碑建立
昭和五十四年五月六日 喜連 水井恒雄

305年祭供養碑建立に際して(昭和五十四年当時)
(★(注1.)人べん+頼 という字である)

水井恒雄夫妻

吉村武右衛門三百五年祭供養碑建立

後藤又兵衛基次の碑


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