Osaka Natu no Jin.

「大阪の夏の陣」



 さて「大阪冬の陣」以降、裸となった大阪城。その弱点はといえば、南側にありました。
 西軍は、東軍が南を衝くなら、最後の決戦は天王寺と考えていました。
 事実、東軍は京から大和と南へと向かったのでした。
 篭城戦が不可能となったいま、西軍には城から打って出るしかありませんでした。
 野戦が得意なあの家康の大軍を、この少数の軍勢で迎え打つには、大和・河内国境の天険によるべしと言ったのは、後藤又兵衛基次その人だったのです。
 しかし真田幸村らとは戦術が異なった為、又兵衛は軍勢を裂いてこれにあたらねばなりませんでした。
 六日未明、深い霧のなかを道明寺に着いた又兵衛は、すでに東軍が国境を越え国分寺に入り布陣していることを知ったのでした。
 遅れを知った彼は、間髪をあげず攻撃を開始したのです。
 これが大阪夏の陣の開戦でした。
 世に伝わる 小松山争奪戦は、数時間に及び、又兵衛らは一度は敵勢を退けたものの、多勢を頼み寄せ返す東軍の前には、風前の灯火となったのでした。
 そして又兵衛は、伊達方の一弾に胸板を打ち抜かれ、もはやこれまでと自決し果てたのでした。
  


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