Matabei Gotoh

「後藤又兵衛基次」

「関ヶ原合戦図屏風」より

「後藤又兵衛基次」

 槍をとっては天下に敵なしとうたはれた後藤又兵衛基次は、元亀二年加西郡山下村に生まれた。
 父の将監基国は秀吉が三木城をかこんだ時、別所方に招かれて籠城に加はり花々しく討死をとげた勇将である。
 この時別所方の敗戦は初めからわかりきった事であったが、義を重んずる基国はさけることができない。
 八歳になる一子甚太郎を、姫路の城主黒田官兵衛にあづけて、三木城に赴いた。
 秀吉は三木に向ふに当り、官兵衛の館に基国の子が居ることを聞いて、甚太郎を陣中に呼んで尋ねた。
「お前の父は別所方の勇士であるから、お前も三木城内の有様をよく知っているであろう。 くはしく教えて呉れればよい褒美を遣はさう」
 居合せた人々は幼い甚太郎のことゆえ、正直に話してしまふであろうと考えたが、
「父上は今三木に籠城しています。その城内の有様を敵に知らせるのは、父上を地獄に落すのも同じではありませんか。 そんな事を尋ねる人も尋ねる人だ」
と恐れる色もなく答へたので、秀吉をはじめ一同は思はず感歎の声をもらしたといふことである。
 成人した基次は官兵衛の子、黒田長政の部将として、朝鮮征伐や関ヶ原の戦に勇名をとどろかせたが、
 その後、諸候が太閤の恩願を忘れて徳川氏に心を寄せようとするのを憤り、浪人となって諸国遊歴の旅に出かけた。
 この時のことである。基次の祖父は山田村南山田に住んでいたので、此の地で長らく遊んだのであった。
 諸大名は基次の武勇をおしんで高禄を争って召し抱へようとしたが、名利を求めぬ基次はひそかに考える所があって、 かえり見ようともしなかった。
 やがて徳川、豊臣両家のもつれは大阪冬夏の両陣となった。
 恩義を忘れ兼ね基次は早速、片桐且元の招きに応じてまっ先に大阪城にかけつけ、  一方の主将として雲霞のように押寄せる関東勢をなやました。
 夏の陣の時、家康はひそかに基次に書を送って
「若し御身が関東の味方に加はるならば播州一国の領主に封じよう。 落城も今日明日にせまった城を出て子孫の為に繁栄をはかった方が賢明ではないか」
とねんごろに誘ったが、もとより応じない。
 名を惜しみ節を全うする武士の花として、大阪城頭に美しく散りはてた。
(昭和十二年刊「山田村史」より)

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