Matabei Gotoh

木村長門守重成が話


 木村長門守重成

 八尾・若江の戦い
 八尾・若江の戦いも、後藤又兵衛基次が小松山合戦に向かった同じ日であった。
豊臣氏譜代の木村長門守重成は四七〇〇の兵を率いて、五月六日の夜中城を出て、
若江に向かったのであった。
 またこれより少し遅れて長宗我部盛親は五〇〇〇の兵で、八尾へ進んだ。
 重成と盛親の作戦は、高野街道を南下して道明寺方面へ進出してくる家康方の
主力に側面から奇襲をかけ、あわよくば家康・秀忠の首級を挙げようというもの
であった。
 真田幸村や毛利勝永にとって不利だった明け方の濃霧は、木村隊と長宗我部隊
には有利に働いたようだ。
 家康方の先鋒井伊直孝が若江に差しかかったとき、道明寺方面に激しい銃声を
耳にした。それに気を取られた井伊隊は、側面に迫りくる木村隊に気づかなかっ
たのであった。
 霧のなかで迫り来る軍勢に気づいたとき、木村隊はすでに目前に迫っていた。
 しかしこの日の霧は深く、木村隊が敵に気づいたのも、井伊隊よりほんの少し
前にすぎなかったのである。
 先に気づいただけ、合戦は木村隊の先制攻撃で開始された。しかしいかんせん
場所が悪すぎた。深泥の水田地帯で、道らしい道もなく、細い畷道だけで、軍勢
を展開させる場所もなかった。足場のよいところであったなら、木村隊に断然有
利に働いたであろうが、何しろ長瀬川と玉櫛川にはさまれた湿地帯で、大部隊を
指揮するには不向きの場所であった。
 朝にはじまった泥まみれの血戦は昼頃までおよぶ長丁場となった。次々に新手
を繰り出す徳川勢に対して、木村隊には援軍もなく、しだいに敗色を濃くしてい
った。

 若武者・重成決死の働き
 木村重成の最期は、まさに天晴れなものであった。
 かねてよりこの日を討死と覚悟していた重成は、冑のなかに名香を焚きこめ、
おのれの最期が見苦しくないように気を遣った。
 先の冬の陣が初陣だった重成は、合戦がいかなるものか先輩の話でしか想像が
つかなかったにもかかわらず、後藤又兵衛を感嘆させるほどの見事な働きを見せ
ていた。
 若干二十二歳でこの世を去った重成は、大坂城の女人たちに大人気であったよ
うだ。しかし実の重成は、美男の優男にあらず、凛々しい武人であったのであろ
う。

 家康が大坂の陣を決意したとされる京都所司代板倉勝重の報告によれば、和平
に心を砕く片桐且元を亡き者にしようと木村重成が命を狙っていると書かれてい
た。はじめは好戦的だった淀君が、徳川方の大砲の一斉射撃に脅え、家康が投げ
かけた和議にとびついたとき、重成は家康の罠だと激しく反対した。和平交渉で
城方の使者となった重成は、家康と取り交わした書状の血判が薄すぎるとして、
居並ぶ徳川氏の重臣たちの前で、家康に突き返し、再度の血判を求めた。重成が
もう少しこの世に早く生を受けていたら、武将としてもっと華々しくその名前を
残したに違いない。

 戦死者の数が徳川方の三倍もあったことで、木村隊の壮絶な戦いは想像できよ
う。
 大坂の陣におけるおおかたの敗北は戦場からの逃亡で、屍をその地にさらすこ
とはあまりにも少なかったことからも、木村隊の覚悟の程が残されている。

 木村重成が首
 八尾・若江の戦いで、藤堂家が挙げた首級は、四一六だった。首級の内訳は、
冑首が一五〇、平首二五三、鼻一〇、生捕三となっている。
 平首は、いうまでもなく冑をかぶっていなかった雑兵で、鼻は手に入れた重い
首を持っていたのでは、あとの働きに支障をきたすので、証拠となる鼻を切り取
って首の代わりにしたわけだが、これらの数を見る限り、勝ち戦であったにもか
かわらず、本気で戦った者がいかに少なかったということになるのではなかろう
か。
 しかし冑首の数が比較的多いのは、手柄になる値うちものの侍首がまっ先に狙
われ、一つの冑首に多くのものが群がり、あとで誰の手柄か判断しかねるものも
多かったという。
 なかには落ちていた冑を拾って、雑兵の首にあとでかぶせたものもあったとい
うから、真実の冑首はかなり減少することになる。
 木村重成の首は、その日家康・秀忠両人の首実検となった。
 名香の匂う重成の心がけに称賛が集まったと伝えられているのだが、記録によ
ると、大坂の陣で首実検があったのは、重成一人だけだったようだ。
 真田幸村・毛利勝永・後藤又兵衛といった名の知れた武将の首には、家康・秀
忠は見向きもしなかった。
 これらの武将はいかに世に知られていようとも、家康としてはあえて首実検を
しないことで、浪人と豊臣氏譜代の差別をつけようとしたのであった。
 このあたりにも、家康一流のパフォーマンスがあったのであろう。


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