「後藤又兵衛基次」が次男「左門基則」のエピソード

その後関ヶ原合戦で「黒田長政」は、東軍徳川方に参戦。
合渡川の戦いでは、又兵衛の作戦により、
一番乗りの戦功を立て、筑前五二万三〇〇〇石の大封を与えられた。
そして又兵衛も大隈一万六〇〇〇石を封ぜられた。
外面的に見れば両者の仲は、うまくいっているようにみえた。
しかし長政は朝鮮の役での遺恨の矢を、意外なかたちで放ってきた。

又兵衛の次男左門基則は若年十二歳なれど、長政の小姓として福岡城に上がっていたが、
一日、能楽を催した長政は、不意にこの左門に小鼓の囃子(はやし)を命じたのだ。
慶長十一年早春のことである。
左門は小鼓の上手として知られていたが、即座に辞退した。
武士たる者が、能楽師の引き立て役にされることを屈辱としたからである。
が、長政は辞退を許さず、やむなく囃子を務めた、しかし左門は心おさまらず、
父の居城である筑前小隈城(ちくぜんおぐまじょう)まで、五里の道を馬をとばして 駆け戻ったのであった。

「無断で脱出して参ったのか、してその訳は?」
黙って理由を聞いた又兵衛は一言、
「下がって休むよい。」と命じた。
しかしながらこれはゆゆしきことであった。
左門にとって主君長政のもとを無断で立ち去ったことは、
自身の命ならずも、一族郎党すべてに重大な影響を与えるからである。
天守閣を立ち去った左門は、自らの命と引き替えにこの責をとろうとしたのであった。
あわや切っ先を、腹に突きたてんとしたその時である。
背後から鉄扇が降って、懐剣をたたき落としたのであった。
「うつけ者、たった一つの命を粗末にするでないぞ。」
左門のまえにどっかと胡座をかいた又兵衛は、
「君が君たらざれば、臣は臣たる必要は、みじんもなし。
たしかにこの又兵衛、幼少の頃より、如水軒(にょすいけん:黒田孝高)様にひきとられ、
世子長政殿と同様に育てられた。その高恩は、海よりも深く、山よりも高い。
その為今日まで、一身をなげうって黒田家のために尽くしてきた。
すでに充分な働きは なし得たと心得る。
さればたかが、一万六〇〇〇石の陪臣の座など、弊履として抛り捨てるに 一片の悔いもなし。
明日はこの小隈城を立退いて、天下の山野を家といたそうぞ。」
そう云いはなって、高らかに笑った。
翌朝、父子ともども黒田家を立ち退いたのであった。


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